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斎藤環氏の「負けた教の信者たち」で、著者はこう述べています。
私は若者の対人評価基準が、いささか「コミュニケーション・スキル」に偏りすぎているような印象を数年前から持っている。
この前、私の職場に中学生が職場体験に来ました。彼らは、自己のアピールポイントを書いた紙を持参してくるのですが、それらを読んでいて気が付きました。
半数以上の生徒が、アピールポイントに「コミュニケーション・スキル」をあげているのです。
友達が多い、誰とでも仲良くなれる、クラスの中心で活躍している…等。
「楽器演奏が得意」「野球部を頑張っている」などのアピールポイントをあげている生徒に比べ、この「コミュニケーション・スキル」のアピールにはなんだか虚しさを感じていしまうのはなぜでしょう。なぜ、たくさんの生徒がいながら、型通りの「コミュニケーション・スキル」アピールばかりなのでしょうか。
もしかしたら、自分の個性と堂々といえるようなものが彼らにはないのかもしれない
とも思いましたし、
「コミュニケーション・スキル」こそが一番、大人にウケる技能である
と彼らが考えている可能性もあります。
斎藤環氏が著書の中で指摘したように、実際現代の世の中であがめられているスキルは「勉強ができること」でも「スポーツができること」でも「お金持ちであること」でもなく、「コミュニケーション能力」である、というのは私自身、ひしひしと感じています。
教育分野でもコミュニケーション・スキルは育てるべき能力として注目を浴びています。就職や転職の際にも、すごく重視される能力です。
でも、「コミュニケーション・スキル」って本当はなんなのか。
一般的には、中学生がアピールポイントで上げたような「友達が多い」とか「みんなをまとめるリーダー的気質」とか「話が上手で場の盛り上げ役」とか、そんなイメージでとらえられていると思います。
しかし、それらが本当に「コミュニケーション・スキル」ならば、多くを生まれ持った性格や才覚に依存させてしまうことになります。世の中には、生まれつき明るい人もいれば、暗い人もいますよね。話好きな人もいれば、一人が好きな人もいますし、リーダー役よりはサポート役で輝く人もいます。
自己の生まれ持った者に左右される能力が、現代社会で最も大切にされる能力であるならば、「自分は暗く、話が下手だ」と思っている多くの子ども達は自信を無くしてしまいますし、教育はそれをどうすることもできません。生まれ持ったものを変えることはできないのですから。
コミュニケーション・スキルは定義上は「技術:とされています。
たとえばgoo辞書では、「他者と円滑なコミュニケーションをとるための技術や手腕」と定義されている。
「円滑なコミュニケーション」とは何を指すのかというと、「相手の言葉に共感し、上手に聞き取り、信頼を引き出す技術」ということができると思います。
一応は技術と銘打たれていますが、相手が自分を信頼してくれるかどうか、なんていうのは、話し手と聞き手の間にしか成立しない問題です。それを第三者が数値化するのは無理だと思います。
「友達が多い」子でも、友達との間に本当の信頼関係ができているかはわからない。
仲間内では人気があっても、他人に対しては不信感を与える物言いをするかもしれない。
沢山の生徒に人気があって、保護者の信頼も厚い先生でも、成績の悪い生徒の目線には立ってあげられないかもしれない。
あまりしゃべるタイプではないけれど、本当はとても聞き上手なひとかもしれない。
コミュニケーション能力は人対人において現れる能力です。誰と誰がしゃべるかによっても変わってきてしまいます。Aさんとはうまくコミュニケーション能力が発揮できたのに、Bさんとはコミュニケーション能力がうまく使えなかった…というように。
つまり「コミュニケーション・スキル」というのはしょせんは自己判断(「私はコミュ力高いんです」と自分でいう)か第三者の思い込み(あの人の話はいつも楽しいので、彼女はコミュ力がある)でしか評価できないと思います。
逆に言えば、自己判断で自分はコミュ障だと思えば、コミュ障になるし、誰かが「あの人、私の前で全然しゃべらないからコミュニケーション能力に難がある」といえば、それまでなんです。
もし、数学能力についてだったら、いかに「私数学ができないんです」といっても中間テストで100点取ったら数学ができる人、ですよね?
このように数値化できないあいまいな能力・スキルを第一に考えてしまう現代だから、自分の思い込みや他者からの一方的な見方で自信を無くしたり、やる気を失ってしまう人が沢山出てくるような気がします。